子どものころからよく泣いていた。中学生くらいまではよく泣いていたので、ある日「私は何にそんなに泣いているのだろう」と思い立って、どのようなことに対して泣いているのか考えたことがある。その結果、私の涙のほとんどは「悔し泣き」だった。
たとえば理不尽な内容で先生に怒られて泣いたのは今でもよく覚えている。授業をちゃんと聞いていたのに、唐突に「お前はやる気がないのか」と職員室に呼び出され、延々説教されて泣いた。
比較的好きな教科(国語)だったこともあり、納得のいかない怒りを向けられて悔しく思ったのを覚えている。
小さな頃から「納得がいかない」と感じることが多かったのかもしれない。母に怒られて泣いたときも、やはり「自分の行いの悪さ」より「母の虫の居所の悪さ」から怒りが来ていそうなことを察知すると、それを肌で感じるだけでうまく言語化できないことに対して、悔し泣きをしていたように思う。
大人になった今は、さすがに悔しくて泣くということはないけれど、それでも「納得がいかない」という部分に対する「我慢のならなさ」は健在なようである。
先日、隣町まで散歩をした時に、公園に野良猫がいた。なかなか人懐っこい猫で「にゃー」と鳴くと「にゃー」と返して足に体をスリスリしてくれるものだから、かわええなぁとスマホでパシャパシャ写真を撮りつつ戯れていた。
すると、唐突に見知らぬおじさんがやってきて「お姉さんお姉さん」と声を掛けてきた。
「はい?」
「この猫ね、エサやったらダメだよ」
「え、はい」
「もうすでにね、エサをあげてる人がいるんだよ。だから人に慣れてるでしょ」
「へぇ、そうなんですねー」
「今お姉さん写真撮ってたでしょ。エサあげたらダメだよ。」
「ええ、はい」
「本当エサあげると困るんだよ、エサあげないで!」
そう言うとどこへともなく消えていった。
気持ちよく散歩をしていただけなのに、なんだか急に辟易してしまった。
だって、私はエサをあげようだなんてこれっぽっちも考えていないし、今エサになるようなモノを何も持っていないし、そもそも初めてきた場所だし、というか初対面でエサエサってくどいし。
地元の人で迷惑してるのかもしれないけど、すごく納得がいかなくて、悶々としながら歩いた。
(急に話しかけてきたと思ったら、こちらはしようとも考えていないことを不躾に注意して何なんだろう。手荷物を持っていないことを見ればエサをあげるためにここにいるわけでないことくらい分かりそうなのに。というか猫の写真を撮ることとエサをあげることに何の関連性があるの)
しばらく歩きながら頭の中で会話をしていると、馴染みの思考回路に辿りついて、私は考えた。
(あのおじさんが私に言った『エサをやるな』という主張、私だったら何て言っただろう。
『猫、かわいいですよね。でも最近野良猫にエサをあげるひとが多くて困ってるんですよ。エサとして持ってきたものをゴミと一緒にそのまま置いてったり、エサ場を媒介して猫同士で伝染病が広がったり、エサによる糞尿被害も多くて。私も猫は好きだし、あげてる方はそんなこと思いもよらず純粋に親切心であげてるんだとは思うんですけどね』
みたいに言うかな。これなら直接的ではないにせよ、世間話の体でエサをやることを諭すことができそう。)
この頭の中での会話の結論が出てふと、わたしは普段から納得いかないことがあった時に、「自分ならどうしただろう」とか「どうすれば自分は納得できただろう」という考え方をよくするなということに気づいた。*1
この気づきからの流れで、昔はそもそも納得がいかないことに対してうまく反論や言語化ができず、悔し泣きをしていたなぁということを思い出したのだ。
子どもの頃でも勿論、一部は言語化できて、納得いかないことに対する反論やWHY?を返したことはあったけど、「子ども」と「大人」というパワーバランスの中では、今度は大人がうまく言語化できなかったり説明するだけの知識がなかったりすると、力任せに「うるさい」とか「口答えするな」といった反応をされたりもするので、ただ言語化できればよいというわけでなく、ちゃんと私が大人になって、かつ言語化できるようになったのが、無駄に泣かなくてよくなった原因なんだろうなと思った。
この一ヶ月ほど多分いちばん自分と会話してるって思ったけど、よくよく思えば人生通してそんな感じだった
— ミネコ (@meymao) 2016年5月3日
*1:勿論、私の言った言葉に納得しない人もいて、そしてまた「自分だったらどう言われたら納得しただろう」なんて考えてる人もいるんだと思う。