本トのこと。

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タダで動かない

子どもの頃に母から仕込まれたしつけの一つに「タダで動かない」というのがある。

どういうものかというと、例えば食後食卓から移動するときに、手ぶらで移動するのではなく食べ終えたお皿を持って移動するついでにキッチンに下げる、居間でテレビを見ている横で洗濯物がたたまれていたら部屋に行くついでにそれを持っていく、といったように、自分の動きの中で無駄な動きを有益な動きに変えるよう教わった。

大人になってとくに仕事をする時に、自分の仕事の仕方にこの「タダで動かない」精神がよく出ているなと思うことがある。

何か一つの仕事をする時に、その周辺を見渡して、その前後の動きがより有益だったり効率的だったりするよう考慮した動きをする。一つの仕事をするとき、それは時として点になりがちなんだけど、タダでは動かんぞという精神でそれを点ではなく蜘蛛の巣状に倍増させようとする。

多分いろんな仕事においてそういう「点から蜘蛛の巣状」にできるポイントがあるので、「蜘蛛の巣状にする」という意識があるかどうかでも異なるだろうし、「どうやったらより大きい蜘蛛の巣状にできるか」という蜘蛛の巣の作り方もきっと人によって違うと思う。

かくして今日も「タダでは動かんぞ」というある種の貧乏性を発揮しながら、仕事をしている。

ご迷惑をおかけします。

夫と別で昼食を取ることになり、普段行かない近所のオシャレイタリアンでパスタを食べた。カウンターだけの狭い店内で、ハイチェアに座り、運ばれたパスタはたしかに美味しいのだけれど、全然空腹でなかったため「たしかに美味しいらしい情報」を舌が受け取っているのだけど無表情で、少しも心が動かない。

この感覚、なんか知ってる、久しぶりな気がする、とぼんやり考えていたら、10代の後半あたりのことを思い出した。

10代から20代の始め頃まで、メンタルを病んでいた。病院に通っていて、処方された薬を飲み続けていたが症状は全然改善しなかった。大層な話ではなくて、どこにでもあるメンタルの不調で、しかしこの大層な話ではないメンタルの不調はさまざまな、私の周りにある世界の彩りを破壊していった。

笑いたくても顔の表情をつくる筋肉が壊死したみたいに動かない。何を食べても美味しくない。何もやる気が出ない。ただ眠り続けたい......etc。

人間は複雑で脆くて不合理で、少しのきっかけでかんたんに狂ってしまう。そんなことを思い出しては考えていた。

お店を出て、いまの私の前にある世界に思いを馳せながら、少し歩いた。コロナ禍によるさまざまな制限、ウクライナ侵攻をはじめとする世界情勢、そんな非日常と共存しながら、まるで普段通りな顔で「暮らし」をしている。

午後の業務をしながらチャットを眺めていると、ここ最近体調を崩して休んでいた同僚が「ご迷惑をおかけします」と言っていた。人間なのだから体調ぐらい崩して当たり前で、謝ることなんかないのだけど、仕事に穴を空けてしまう気まずさからか、みんなこう言ってしまう。「ご迷惑をおかけします。」

どちらかというと、今まさに起こっている戦争をしはじめた人にこれを言ってほしいよな、と思う。でも絶対そんなことは言わないだろうな。「ご迷惑をおかけします。」

あんな堂々と迷惑をかけていたって、言い分があって謝ったりしないんだから、みんなもっと体調ぐらい堂々と崩してほしい。私も堂々と体調を崩したいし。

正しさらしいものとどう付き合うか、をいかに伝えるか

子どもを育てていると、「正しさらしいものとどう付き合うか」ということについて、考える機会がよくあります。

親である私自身が子に対して物事の善し悪しを教育していく必要もあるし、絵本の読み聞かせをしていても、親が意図するか否かに関わらず、善悪の存在するストーリが出てきます。

「善意」とどう付き合うか

福沢諭吉は自分の子どものために毎日一か条ずつ「ひびのおしえ」を書いて与えていました。ひびのおしえ二編「おさだめのおきて」のだい四に以下のような文章があります。

ぬしみすべからず。

ひとのおとしたるものをひろうべからず。

盗みをしてはいけない、というのは分かる。その後に、人の落としたものを拾ってはいけない、と加えられているのが非常に細かな教えだなぁと最近思うのです。

現代語訳 童蒙おしえ草 ひびのおしえ」ではこの部分の現代語訳として

人の落としたものを拾って、自分のものとしてはいけません。

と、前段の「ぬすみすべからず」の文脈で訳されていますが、子どもが落としたものを拾わないほうがよい理由は、その他にもありそうです。

まず1に、落とした人がその場所に落としたと思い当たっている場合、すぐに取りに戻る可能性がある。その場合、動かしてしまうと善意で拾ってもかえって混乱させたり、手間をかけさせてしまいます。

そして2に、警察へ届け出るにしても手続きが必要となり、子どもがこれをやろうと思うとやはり手間になります。とくに子どもが素朴に拾って届け出ようと思う場合、拾得した物に対して報労金や所有権を主張したいわけでもないでしょうし、拾得物の価値をその時点で認識しているかも怪しい。

第3に、これが親としては一番怖いですが、落とし物を拾ったタイミングで見知らぬ人から「私が落としたものを拾って自分のものにしようとしたな」などと言いがかりをつけられたり、落とし物自体が危険物であったりなど、トラブルに巻き込まれないとも限らないこと。

そして最後に、現代語訳でも書かれていた通り、善意で拾ったとしてもどこかで魔がさして自分のものにしてしまう可能性があるということ。

そういうことを考えると「落とし物は拾って届けるのが正しい」と教えるのは少し雑な気がしていて、親が一緒にいない子どもだけの状況なのであれば、落とし物を拾って届ける役目は周囲の大人の判断に任せるでよいのではないか、と私は思ったわけです。

 

善意についてはもう一つ注意したいことがあり、子育てをする上でよく聞く話として、「見知らぬ大人から手助けを求められても応じない」という話があります。

これは、困っているフリをして子どもに手助けを求め、子どもがそれに応じて何らかの被害に巻き込まれる場合がある、という話です。

たとえ困って人に助けてもらう必要が発生したとして、普通は子どもに助けを求める大人はいないと思うので、基本的にはそういう場面に遭遇した場合は別の大人を呼ぶなどし、自分自身だけで助けようとしない、という対処法を話しておく必要があるだろうと考えています。

自分で書いておいてアレですが、なんとも世知辛い世の中ですね。

「正義」や「正しさ」とどう付き合うか

子どもが成長していって分別も多少つき始めると、自分の中に湧く「正義」や「正しさ」を貫きたくなる欲望が出てくると思います。そういう「自分は正しい」を感じた時、その「正しさ」を貫いて、周りの人をやり込めたり言い負かせたりすることが本当に「正しいこと」なんだっけ?という話は、折を見て話したいテーマだなとよく考えます。

「正しい」って、気持ちいいんですよね。自分は間違っていないから、自分の正しさを主張して相手をやり込めば間違いないし、私は悪くないでしょ?となる。でも、人間関係においてはその「正しさ」を主張することが必ずしも正しくないこともあるし、そもそも物事には善し悪しや正義と悪のように分かりやすいものばかりではなく、もっと複雑だったり、自分には見えていないこともある、ということを知っておかないといけません。

世界や社会や人間関係など、複雑なものの中で「正しさ」というのは一見分かりやすい絶対的なもののように見えるので、それに安易に寄りかかってしまうことは非常に多い。地域や時代などによっても正しさは容易に変わってしまうこともあって、そういう例は枚挙にいとまがないですよね。

そういう自分の中の「正しさ」や「正義」とどう付き合うか、ということを子ども(2021年12月現在、2歳)と話すことを、今からとても楽しみにしています。

母はこういう話をするのがとても好きなんだけど、君は好きだろうか。きっと好きなんじゃないかなと思いながら、成長を見守っている日々です。

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