特別でどこにでもある身の上話

少し前に、まだ知り合って間もない人と飲みにいく機会があり、その飲みの席で、身の上話を聞いた。

幼いうちに両親が離婚したため片親で育ち、そのために色々のことを諦めたり出来なかったりし、それに関してこういうコンプレックスが云々、といった類の話だった。

私はその話に新鮮な衝撃を受けた。別に内容に驚いたわけではない。知り合って間もない間柄で、唐突にごくプライベートな身の上話が出たからだった。

別の知り合いとの食事の際にも、少しの身の上話が出た。まるで天気の話をするように、意外とみんなごくプライベートな身の上話をするものなのだなと思った。

 

私は、単に自分の身の上話をするのが苦手だ。なにかを説明するときに、こういう経験をしたからこう思う、という話の流れで説明上必要があれば話すのは(それでも苦手なものには変わりないけれど)構わないけれど、やはり躊躇われる。

理由はいくつかあるけれど、その中の一つで最も強い理由は、私という人間の幾何分の一を切り取っただけのごく一部分の身の上話をすることで、人間像の想定やカテゴライズを勝手にされたり、自分の感情を勝手に決めつけられるのが嫌なのだ。

二番目には、自分の身の上話をしたところで、「だから何なの?」と勝手にもうひとりの自分が入れてくること。

家の都合で小さい頃から何度も引っ越しをして云々(だから何なの?)

小さい頃は兄弟と離れ離れで生活をして云々(だから何なの?)

高校時代には家族と離れて単身生活して云々(だから何なの?)

という具合。(ちなみにこれは自分にのみ発令される癖みたいなもので、他人の話を聞く場合はこの限りでない)

これは自意識の話に共通するところがあって、恐らく身の上話の性質上「人とは違う私の身の上の話」として話を聞く形式があるからかもしれない。勿論こういう人生を送ってきたということを単に事実として語り語られるケースもあるけれど、身の上話で複雑な私情が挟まれないのは稀だ。

それがいかに自分に影響を与えるかは別の話だけれど、影響の結果として残るものはそれそのものの特殊性や特別性によるものだけではないように思う。

辛くも変わってるわけでもない、誰とも同じでないこの身の上の話は、語ったところでやはり「だから何だっていうの?」だし、仮に誰かが私の身の上に興味があったとしても、それは常に変わりゆく私の残照でしかない。だから自分のことなのに他人ごとのようにも思えるし、オチのない話をするような感覚もあるので、わざわざ話す気にもなれない。

 

ちなみに人の身の上話を聞くのは嫌いじゃない。

 「他人の身の上話を聞くことで、自分が勝手な想定やカテゴライズをするかもという懸念はないの?」と聞かれたけれど、そういう風に考えたことはない。

誰かの話を聞いて何かしらの想定をする前に、人の人生は私にとっては経験をしていない物語なので、単純にフィクションとして受け取っているからだと思う。

自分が人のことを理解できたり、分かったりなどできないと思っている。だから同情や偏見や共感をおおげさに見出さないし、自分になにかができたり変えられたりできない、ただそういうものなのだ、と思う。

翻って周りを見ると、みんなずっとシリアスに考えているみたいだ。

「人の話を聞いていないからでは」とも言われたけれど、なるほどそうかも知れない。

ともかく人の身の上話を聞くのは嫌いじゃないので、いつでも聞きます。

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