子どもの記憶

幼少の頃を思い出すと、だいたいは住んでいた家の中の風景になる。

私はそこで何をするかというと、ソファーの背もたれの上を歩きまわる。ひっくり返したイスの裏板をすべり台にする。ダイニングテーブル下に潜っておやつを食べる。天袋に登って忍者ごっこをする。そんなことをしている。

 いまでは思いつきもしないし、やろうともしないような遊びをその頃には色々していた。

私はよく子供の頃のことを思い出す。とはいえ他人と比較したことなんかないから、それがどの程度の記憶かは分からない。

 

子どもの頃に住んでいた部屋を思い返すと、いま私が居る「部屋」とは違った風に思い出される。

部屋はいまでは手触りのよい無意識の空間として、空間そのものを日常的に意識することなく過ごしている。子どもの頃はこの「空間」がもう少し、物体として認知されていた。

仰ぐと白く四角い大きな箱のなかに自分が入っていて、そこにさまざまな形の大きな物体がごろりとある。その白い箱の中にある物体たちを、自由自在に遊び道具として、子どもの私は触れていた。

私にとって、部屋の中にあったあの大きな灰色のソファーは座るためのものではなく、バネのきいたクッションの上でジャンプするための道具だったし、その背もたれは平均台だった。

広いダイニングテーブルの上はお立ち台ごっこをする場所。天袋は懐中電灯を持ち込んで隠れて漫画を読む場所。廊下は手足をつっぱらせて登る場所だった。

 

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いまではソファーは座るものとして認識しており、それをジャンプや平均台にするにもどうも都合が悪い。天袋にはいまでも登れるだろうけど、きっと窮屈で居られない。

壁ならよじ登れるかもしれないと試してみたけれど、手足の伸びすぎたこの体ではどうにも上手くいかない。

 

子どものころに明確な目的を持たなかった<物体>が、自分の肉体的精神的成長とともにその用途に目的や意味をもって認識され、より具体的な<物質>として今の部屋や空間を形成している。

そういうわけできっと部屋は「物体的な空間」から役割を認識しそれに適切な物質となった結果、意識する必要のない無意識の空間になった。

 

そこに無邪気さや善し悪しといった意味はない。むしろ大人になったいまでも、自分のサイズ感や認識など、物体を含めた対象との関わり方で似たような体験をしているのだろうなあと思った。

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