読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ときの砂

小説

「ひどく変わったね」

見なれたよりずっと顔色のいい彼女をみて、開口一番にそういった。 

「あらそう?」

なにをいっても動じない、無関心じみた口調だけは変わっていない。 

「少し丸くなった」

僕がいじわるい視線を送ると、彼女はさっぱりわからないという仕草をした。

彼女ととくべつ仲がよかったわけではない。友人を介して飲み会に同席する機会がある程度で、二人きりで遊ぶような仲ではなかった。

 

「真中さんっているだろ」

「真中…...あの黒髪の。理学部の川原が狙ってる子か」

「そうそう。この間、川原が飲み会の帰りに送っていったらしいんだよ。で、今どんなことに興味があるか聞かれて古典力学について川原が話し始めたらしいんだ」

「ばかだなぁ」

「真中さんもおとなしく聞いてたらしくて川原が盛り上がって話し続けてたら、いきなり手を取られたかと思うと乳房を掴まされて『ちょっと、黙っててくれる?』って」

「ひええ」

こんな噂を聞くだけでも到底、僕の手に負えるタイプではないひとだった。彼女についての話をしだせばこの手の話に事欠かなかったこともあって、川原だけでなくいろんな男が彼女を誘ったし、さまざまな噂に尾ひれ背びれが大きくついた。誘えば彼女と朝まで過ごせるらしいとか、内股にほくろがあるらしいだとか。憶測はいくつも飛び交ったけれど、結局彼女は誰のものでもなかったし、噂を決定的にする男も存在しなかった。

 

「今夜はそのまま帰るの?」

ある日の飲み会で偶然隣だった真中さんに一度だけ、質問したことがあった。

「そのまま帰らせたくないの?」

思ってもみなかった返事がかえってきて、戸惑った。

「まさか」

慌てて言った僕の様子をみて、彼女はサディスティックに笑った。

「分かってるよ。ただちょっと失礼だと思っただけ。今夜『は』っての」

言われて改めて考え直すと、我ながらなんて不躾な質問をしたのだろうと思った。彼女が不快感を表すのも無理なかった。

「ごめん」

噂を特別信じているわけでない僕でさえこの有様なのだから、他の男にも幾度となく似たようなことを聞かれたのかもしれない。顔色こそ変えなかったけど厳しさを帯びた彼女の声を呼び起こして、そう思った。

 

それが今、目の前でぐっすり眠った赤ん坊を抱っこして、相変わらずジーンズにTシャツの僕とすれ違いざまに道端で立ち話をしている。

「本当、変わったよ」

細すぎた彼女の腕は程良く肉づいていて、つまるところ健康的な体つきになっていたし、顔色や表情にだって、新たな生命が宿ったようだった。 

「あなたは変わってないね」 

僕のスニーカーに目を落として彼女は笑った。彼女と過ごしていた三年前と同じ、ブルーのナイキを履いていたからだ。 

「まあね、僕は変わらないよ」 

彼女はぐるりと僕を見回して、聞き分けの悪い子供を見るように少し困った顔で微笑んだ。 

「私が変わったんじゃない、時間が変わっただけ。時間が変わらなければ私も変わらなかった。ただそれだけ」

 

久しぶりの再会を懐かしんだ瞬間は風とともに流された。じゃあと手をあげた彼女は何事もなかったように交差点へ向かうと、西へと曲がった。

残された僕は古びたスニーカーを眺め、変わらない僕の時間の中で、時間の変わった彼女の姿をかすかに思い返した。

Copyright (C) 2011 copyrights. 本トのこと All Rights Reserved.