変わらない感性、失われし感性

大学の講義で伊勢物語を読む機会があった。

伊勢物語は平安初期に成立した歌物語で、ある男の元服から死ぬまでの話全百二十五段が連なる形で描かれている。

なんとなく第四段が心に残った。

原文は検索すれば出てくるので、どんな話か現代語訳を書くと、

 

昔、東の五条のお邸に皇太后の宮がいらっしゃり、そのお邸の西の対に住む女がいた。

その女との関係が望ましくないとは分かっていながら、どうしても愛する気持ちの深かった男が尋ねていたが、一月も十日ほどの頃に女は他の場所に姿を隠してしまった。

どこに居るのか聞いたものの、そこは普通の身分の人が行き来できる場所ではなかったため、一層つらく思い続けていた。

翌年一月の梅の花盛りに、去年を恋しく思い男は同じ場所を訪れ、立ってみたりしゃがんでみたりしたけれど、去年とは似ても似つかない有り様だった。

男は泣いて、がらんとした部屋で月の傾くまで伏せ、去年のことを思い出して

この月はちがう月なのか、この春はあの頃の春ではないのか。私のこの身だけは変わらぬままなのに

と詠み、夜がほのぼの明ける頃、泣く泣く帰っていった。

 

 という風である。

この話の中で一番心惹かれるのは、がらんとした部屋で女のいた時にあったはずの物や彼女自身の姿がなく、変わらない自分だけが残っている、という男の姿。

まるでドラマのワンシーンみたいだけど、考えるまでもなく伊勢物語は平安初期に成立した物語というところに、感傷の普遍性を見る気がして面白い。

このままJ-popの歌詞にでも出来そうと思ったけど、自分だけ残ってあなたは居ない(あなたの居た景色を見つつ切ない気持ち)という描写は恐らく山ほどある。

真っ先に思い浮かんだのは山崎まさよしの"One more time, One more chance"。

 

いつでも捜しているよ どっかに君の姿を

明け方の街 桜木町で

こんなとこに来るはずもないのに

 

この歌では桜木町が彼女との思い出の場所なのかどうかは分からないけど、彼女を失って桜木町という風景の中に自分だけがいる、という描写にどこか通ずるものを感じる。

異なる時代を生きていても、今を生きる私たちと同じように人間の喜怒哀楽があり、同じように感じるのだなあというところに、妙なこそばゆさと嬉しさがある。

こうして今の私たちと共通する感性を見出す反面、失われる感性というのもあるのだろうことを想像する。

 「もののあはれ」や「をかし」「侘び寂び」など時代ごとに見る美的感覚があるけれど、言葉として残っていない感情や感覚も沢山生まれただろうし、あっただろうと思う。

知っていると思っている感覚であっても、彼らの言う「かなし」と私の理解する「かなし」が本当に同じか、どうも疑わしい。

各時代の読者と同じ感覚で夜這いや愛人の話を読むことができるのだろうか。

言葉自体に対する認識やニュアンスの変化もあるだろう。

五十年後に「あげぽよ」や「てへぺろ」といった言葉の持っていた感覚や概念は同じように受け継がれるのか。

時の流れの中で「花金」はそのままの姿で生き続けることができるのか。

そこにあったものが失われ、また新たに移り変わる文化や感性に私は何を感じ見出だせばいいのか......などなど。

そんなことに気を取られて、半分以上講義の話が聞けていないわけです。

 

伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

 

 

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