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常識の海

「釣りが嫌いだった」

何の話の流れだったか、夕食時の会話に夫がそう言い出した。

「釣りに連れていってもらうんだけど、兄ちゃんばっか釣れて僕だけ釣れない。子供だからじっと釣れるまで待つというのも面白くなかったし、だから今でも釣りは好きじゃない」

たしかに子供にとって釣れない魚釣りは楽しくなさそうである。

そういえば私もよく海に行ったなあと思いだした。沖縄で住んでいた家は、海が自転車で行ける距離にあって、家族とだけでなく友達ともよく行った。

今は整備されてなくなってしまったけれど、小学生の頃によく行ってた地元のビーチに海面から2mほど高さのある桟橋があって、そこから水深2〜3mほどの海に飛び込んで遊ぶのが最高にたのしかった......今考えると恐ろしくもあるが。(水泳を習っていたので泳ぎは得意であった。)

ただ、女の子だからか、あまり釣りをした記憶はない。一つだけ鮮明に残っている釣りに関する記憶がある。

釣り好きの父が、姉と兄と私を連れて、釣りに行ったときの話である。私はまだ小学校に入るか入らないかくらいだった。

父は途中で買った釣具や餌を手際よくセットして姉と兄にそれぞれ釣り竿を与えていた。幼いのもあってか、私には釣り竿がなかった。

釣りができずに不貞腐れ......ることもなくいい子にそこらへんを探索しながら、テトラポットのフナムシを追いかけたり、波に削られた宝石みたいなガラス片を拾ったり、海藻を流木で突いたりしていた。

ひと通り探索して家族の元へ戻ると、みんなまだ釣れていない。横に置いたバケツも空のままである。

揃ってなにやら懸命に水面を漂う”浮き”を黙って見つめている。

退屈だしおやつでも食べようと車に戻ると、海に着くまでに走ったあぜ道で食らったのであろう泥がタイヤとその周りを汚していた。

沖縄の日差しに照られて少し乾いたその泥を指先で削ってみたけど、なかなか落ちない。

そうだ、さっきのバケツの中の水で洗えばきれいになる! 私は急いでバケツを手に取り、テトラポットを伝って海面まで下り、水を一杯に汲んで車に戻った。

バケツの水を車にかけて擦ると、泥が落ちてみるみるタイヤはきれいになっていった。

と、父がすごい形相でこちらにやってきて、いきなり怒りはじめた。なぜ怒っているのか理解できずにいたけれど、どうやら車を洗ったことに怒っているらしかった。

「っていうことがあって、車をきれいにしようと思って海水で車を洗ってたら、お父さんに怒られたわけ。釣りの思い出といったらこれくらいかなぁ」

夫にその話をしたら「それは怒られて当然」と言われてしまった。いやたしかに申し訳ないけれど。

「でもね、私はイタズラで車に海水をぶっかけたわけじゃなくて、きれいにしようと思って掃除をしていたわけ。それを、なぜそれがいけないのかを説明しないで怒るのは怠慢だと今でも思うんだよ」

まだ水と海水がどう違うのかを理解していない子供に、きれいにしようとした行為は全然見ずに、結果だけを見て感情的に怒るのは納得がいかない。

「なんかそれ、大人の世界でも同じじゃないの」

と夫に言われると、なるほどそんな気もする。結果に関わらず、割と理不尽なことで怒られることはなにも子供時代に限らない。

自分はこれをこういうものだと認識しているから、相手も当然これをこういうものだと認識しているだろう。知ってるだろう。常識的に考えてこうだろう......。

話の通じない相手と最初から諦めるパターンも多いけれど、どうでもいい相手ならまだしも自分の子供だったり部下だったり近しい人間であると、叱るための労力をかけるべきことは大いにあるし、「叱り方」が問われる場面は結構ありそうである。

私は子供も部下ももっていないので分からないかもしれないけれど、叱るにせよ何にせよ、どうしてそうなのかという前提や理由を伝え理解しあう労力をなるだけ惜しまないようにありたいなあと思う。

いやまあ車を海水で洗うのはよくないと思うけどね。

 

常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。(アルベルト・アインシュタイン

 

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