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発芽

小説

「きょうも芽、出てない」

声に振り返ると、しゃがみこんだ僕がベランダに置いた小さな盆栽鉢を持ち上げて、平らに整った土の表面をのぞき込んでいた。

「そのうちきっと出るよ」

イロハモミジを種から育てたいといいだして、種を蒔いてから三週間ほど、この調子である。

手元に視線を戻し、空になったテーブルの皿をキッチンへ運ぶ。

僕は相変わらずベランダの縁で春の風に当たっている。芽がでないことにガッカリしているのか、昨晩の飲み過ぎでぼーっとしているのか、朝から覇気のない肩越しに声を掛ける。

「コーヒー、飲む?」

返事を待たずにコーヒーを淹れはじめる。今日一日の心地よさを保証するような光が窓から差している。

ふた口ほどコーヒーを飲んで時計に目をやると、もう出ていないといけない時間を指している。私たちはゆっくりしすぎた朝の時間を取り戻すように家を出た。

 

「きょうも芽、出てない」

翌朝もベランダの縁でしゃがみこんだ僕のしょんぼりした声がする。

 「もうすぐ出るんじゃないかな」

いつもと同じ調子で返す。僕は納得していない顔を向けて、水を張った皿に鉢を浸けて水をやる。私はテーブルの上の梶井基次郎を本棚に戻す。

「あんまりゆっくりしていると、昨日みたいに後でバタバタしちゃうよ」

早々に僕を会社に送り出して、洗濯機を回す。

洗濯機の中で絡まった衣服をほどいて、シワを伸ばす。

シャツ、タオル、下着、靴下。物干し竿にかけると、遠慮がちにダンスするように揺れている。

陽気な天気と丁度いい風につかまってベランダの縁に腰を下ろすと、おとなしく洗濯物を見上げている盆栽鉢がいる。

ただ土が入っただけの鉢を持ち上げ表面を眺める。土から白い紐が出ている。よく見てみると茶色の皮をかぶった緑色の芽がくっついている。

芽が出てる。

どうしよう。僕に教えてあげよう。ソファーに放り投げてあったケータイを手にとって、メールを開く。

「芽、出てる。」

入力した後で、いや、でもやめておこう。キャンセルボタンを押して、ケータイをソファーに放り投げた。

 

「芽、出てる! ねえ、芽が出てるよ。イロハモミジの芽、見て見て!」

翌朝、僕の声で目が覚めた。ベランダから持ってきた盆栽鉢をベッドの上に運んできて、上気した顔をしている。

「うんうん、見るからベッドの上に連れてきちゃダメでしょう。土落ちるといけないからね、ベランダいくからちょっと待って」

寝ぼけ眼をこすって起き上がる。盆栽鉢をベランダに置くと、急かすようにまた僕がベッド脇に戻ってくる。

まだ空も青くなりきらない朝に、二人並んでベランダの縁にしゃがむ。

「どこに芽あるの」

私が聞くと嬉しそうに小さな盆栽鉢を持ち上げ、その表面からかすかに出現したイロハモミジの芽を指差す。

「ほらね」

本当だ、芽が出てる。だから言ったでしょう、そのうちすぐ芽が出るって、という言葉に「うん」と答えて、誇らしげに発芽したイロハモミジを眺めている。

その様子をぼんやり眺めながら欠伸をすると同時に身震いした。暖かくなってきたとはいえ、起き抜けにベランダに出てはさすがに寒い。

「コーヒー、飲む?」

ベランダで土の表面に熱中している僕の返事を待たずに、私はコーヒーを淹れはじめた。

 

 

梶井基次郎  (ちくま日本文学 28)

梶井基次郎 (ちくま日本文学 28)

 

関連:nitro_idiot's diary『欺瞞』(written by id:nitro_idiot

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