珈琲の温度

3月11日に大きな地震があったことと、その7日前に彼女を失ったことはよく覚えている。

これだけ掃いて捨てるほどの人がいるのに、一人の人間に執着しなければいけない理由も、よく分からない。彼女と、そこを歩いている人の違いって......声を知っているとか。笑顔とか。腕の細さとか、重ねた肌から伝わる体温、とか?

スクランブル交差点で思わず、立ち止まる。

家電量販店の大型テレビは今日も、際限なく広がる津波が街ごと飲み込んでいく映像を繰り返している。

「うちの会社では今春の花見は自粛になったんですよ」

「へえ、うちは例年通りやるらしいですよ、こんなときに、不謹慎ですよねえ。それはそうと昼飯どうします?」

「最近肉食ってないからステーキとか食いたいっすね」

「でもこんな時に肉とか、不謹慎じゃないですか?」

「じゃあ寿司にしますかーー」

方向が一緒なのか、そんな会話と共にスーツ姿の男が二人、ついてくる。AQUOS津波がこいつらも一緒に攫っていってくれたらいいのに。 

あの日以降この国は革命が起きたような混乱で、毎日メディアはなにが正しいかさえ判断できない情報を流しつづけ、お店から卵がなくなり、水がなくなり、電池がなくなり、煙草がなくなった。

非日常的な日常を無機質に続けるほかない無数の人びとの様々な困惑が、街に溢れかえっていた。 

うんざりしていた。その片隅で少しだけ、起こりえない現実に何かを期待してもいたけれど、最終的にはうんざりしていた。

毎日のように地面は揺れるのに、携帯のバイブはいつまでも震えない。何もかもがいつもと変わってしまったように思えたのに、何かを変えたいと思いながら何も出来ないでいる僕は、少しも変わりがなかった。 

画面が伝える見渡すかぎりが破壊され瓦礫が散乱する姿に、なくした彼女との年月や関係、その間にある思い出の断片を無理やり重ねた。僕の中にある個人的な出来事を、こじつけのようにリンクさせることによって、辛うじて世界と繋がっているような安堵を得たかったのかもしれない。

毎朝スーツを着て、乱れたダイヤの暗い電車に揺られ会社と家を往復しながら、自分はこの世界を立て直す歯車の一つにさえなれない気がしていた。

地震の13日後。日常に救いを見いだせないでいる中、新聞の隅に小さく載った記事はこの数日の混乱に少しだけ奇妙な心地よさを与えた。 

寒さで目覚めてデジタル時計に目をやると、5時31分の表示と気温を知らせる5℃、そして晴マークが付いている。こんなに冷え込んだ朝なのに窓越しに伝わる曙空の美しい、春先の木曜日だった。

やけに目が冴えてしまったので、やっとの思いでベッドを出ると、冷えきったフローリングをつま先立ちで玄関まで移動し、新聞を抜き取った。急いでベッドに戻り新聞を広げ、いつも通り一面から順に目を通した時だった。 

ふと目を引いた「最も冷たい星を発見」と題されたその記事の内容は、大体こんな感じだった。

このほど発見された星の表面温度は摂氏97度前後で、これまでに見つかっている褐色矮星の中でも最も冷たく、その表面温度は淹れたてのコーヒー程度の熱さだという。

褐色矮星と呼ばれる星のグループに属する風変わりなこのタイプの天体は、よく「恒星になりそこなった星」と言われる。

恒星並みの熱と化学的特徴を備えながら、コアで核融合を引き起こすだけの重力圧を生み出す質量を持たないためだ。

例えば、太陽系の木星の表面温度は摂氏マイナス149度前後だが、他の恒星系では、表面温度が高温になる「ホット・ジュピター」と呼ばれる惑星も発見されている。 

星という観点から見ると、新たに発見されたこの天体は、過去に見つかったどの星よりも温度がかなり低いため、もはや実際に水の雲を伴う大気を持つ可能性のあるタイプの天体に属するといえる。

 

この記事を読んでしばらく、なにか奇妙な感覚に取り憑かれた。寝起きのボケた頭のせいかとしばらく考えてみると、どうやら珈琲と同じくらいの熱さがあるのに「冷たい」ことに引っかかったらしい。

僕は珈琲で満たされたこの恒星にも惑星にもなれない星を思い浮かべた。きっと琥珀色いっぱいを湛えたとても大きな湖があって、空は紺碧の静寂が包みこみ、遙か彼方に無数の星がその光を全力で瞬かせている。水面に立ち込めた白い霧がゆらめきながらそこらじゅうに香ばしい薫りを漂わせーー。

と、ふとそこで僕はもうしばらくの間、珈琲を飲んでいないことに気がついた。忙しかったのと、色んな、本当に色んなことが重なったのがあって、ゆっくり珈琲を淹れることも忘れていた。

そう気づくと、たまらなく珈琲が飲みたくなった。

棚からミルを取り出し、まだぼーっとした頭を起こすように珈琲豆を勢いよく挽くと湯をゆっくりと注いで、カップに落ちた珈琲を覗き込む。無意識に取り出したマグカップは、いつの日かに朝の弱い僕のために彼女が買ってくれたものだった。

僕は珈琲のコクのある薫りを深く吸い込むと、そのまま大きくため息を吐いた。カップに口をつけ珈琲を一口啜ると、熱くてとてもじゃないけどまだ飲めそうにない。

僕は割り切れない気持ちでもう一度、珈琲と同じ程度の冷たい星の記事を、眺めた。

 

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