読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大人カスタマイズ

少し前までは自分が最年少で周りは年上ばかりという状況が多かったけれど、気づくとこの頃は自分が年上で周りは年下ばかりという状況になることも増えてきた。

自分ではまだまだ未熟なつもりでのほほんと生きておるので、「meymaoさん、大人ですよね」と言われると、ビクッとしてしまう。

「え、あ。私、大人なんだ」と。

『大人』というのは様々な意味で使われるけど、単純に成人してるという年齢的なものだけでなく(他者との相対的な関係の中で)他者に大人として認識され、そのような感覚を抱かれるというのは非常に興味深い。

自分の認識する自分と他者の認識する自分の差異は今更述べるほどのこともなく、決して交わることのない大きな壁として延々横たわっているわけだけど、少なからず自分以外の人間から『大人』という一つの確立した人間として認識されることは恐らく喜ばしいことだろう。

大人になりたての世代になると、成人した大人としての自分と、大人として成熟した状態には程遠い現在の自分との対比に、無自覚のジレンマに陥る人も少なからずいるらしい。

私はどうだったろう、とよく思い返す。

「いかに子供時代を子供として満喫するか」を少女期に考えていたことは覚えているけど、大人の階段をのぼり始めた頃から「いかに大人になるか」という類については、考えたことがないように思う。

割と無計画に考えなしに生きていても、見る人から見れば『大人』として認識されるのだから、奇妙なもんだなぁと思う。

ただ、『大人』になるためのあれこれは考えたことがないけど、私は思春期の頃からいつでも『自分がなりたい人間になる』という意識が一貫して、ある。

「私は大人になるために歳を重ね生きるのではなく、なりたい自分として生きるために歳を重ねるのだ」という意識。

そのために私がしたことはただの一つで、つまり「なりたい自分を演じる」ということだった。

頭が良くなりたいと思ったら頭がよい自分を演じたし(と言っても闇雲に衒学趣味に走るわけでなく、自分の掘り下げたい部分を自分の納得するまで掘り下げるという手法)、遊び上手な人間になりたいと思ったらとりあえず色んな遊びを経験してみるし、フットワークの軽い人間になりたいと思ったら思いついたことをなんでも実践してみるし、ケチな人間にはなりたくないので気前よく振る舞う。

つまり「私はこういう人間になりたい像」を片っ端から具現化していくわけである。

私が昔思っていた『大人』は、印刷したように字が綺麗だったし、ソバージュに紅いルージュのよく似合う超絶美人だったし、ウィットに富み聡明で仕事もよくできる切り替えの上手い人間だったし、シャレオツな香辛料使った料理を作れる女性だったし、シャネルの五番をネグリジェ代わりに着て寝るセクシーな女性だったし、つまりはパーフェクトな人間であってそして、そんな人間は(ほとんど)いないことは大人になれば分かるわけだけど。

『演じる』ことに空虚感や虚無感を連想する人もいるかもしれない。けど、残念ながら(少なくとも私の場合)、「私」は演じることを軽蔑できるほど中身を持ったタイソウなものではない。それに私のカスタマイズした私は不思議と『私』になる。きっと、『私を演じる』ことよりも『私が何を選んでどう演じる』ということの方が、私の主軸となるのだろう。

大人は『自分のなりたい自分』と同じように、きっとひとつの要素で作られるものではなく、自分という型に合った要素を自分でカスタマイズして取り入れ、それが自分の体にしっくり馴染んだときの現象なんだと思う。

『私』には私しかなれないし、なりたい私になる鍵は私の中にしかない。

そんなわけで、まだまだこれからの道のりですんで、大人なんて抽象的なことは放り投げて、なりたい自分になればいいのではないでしょうか。

Copyright (C) 2011 copyrights. 本トのこと All Rights Reserved.