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百年の孤独

先日、同僚と家で珈琲を飲みながら、大学に入ったキッカケについて話した。

私は現在通信制の大学の文学部に在学中で、国文学を専攻している。その中でも専門を自称すると、主に大正時代がメインになる。

よくよく考えると、大学に入るキッカケとなった出来事も、現在大学で学ぶ理由も、文学に直接関係がない。

私のしようとしていることは文学に当てはめるには少しレアケースな気がするけど、どうして大学で学ぶのかについて、聞かれることもあるのでここにも書いておこうと思う。

数年前に祖父から、曾祖父母が交わした恋文を見せてもらった。時代は1920年頃。曾祖父は東京の叔母の家に下宿する大学生で、曾祖母はその下宿先に奉公する下女(女中)だった。

曾祖父は曾祖母の親切な人柄に惹かれ、恋に落ちた。やがて二人の間には子ができるが、身分の違いにより結婚を反対され、曾祖母は広島の田舎へ帰され、離ればなれとなった。

その後、子が生まれ、結婚できるよう何年も説得し続けた曾祖父の努力も虚しく、二人が結ばれることはなかった。そうして曾祖母は幼い子を残し、ちょうど今の私の年頃に、亡くなった。

二人の間に生まれたのが現在も広島の田舎に健在である祖父であり、代を経て現在の私に行き着く。

自分のルーツが文字で読める(恋文は十七通くらい残っている)ことも面白いし、単純に若者だったこの二人の人間模様と、生きた大正という時代に興味が湧いた。

そういう理由で大正時代を主に専門としているので「大正時代の文学」というより「大正時代そのもの」と言ったほうが適切な気もする。(もっと限定すると同時代の東京市本鄕區界隈)

理由がなければわざわざ、大正という時代について振り返ることも、知ることも、きっとないだろう。

大正デモクラシーにはじまり、自由恋愛が叫ばれだした時代、モダンボーイ・モダンガールが街を闊歩する時代、大戦景気に浮かれる時代、「新しい女」が登場する時代である一方、遊郭のある時代、身分差のある時代、口減らしのある時代、壊滅的な地震を経験した、時代。

時代や社会、環境が違っても、そこから垣間見ることのできるのは、ひとつひとつ泥まみれになってそれぞれの人生を右往左往する人間、ひとときの甘美や苦渋や苦悩の刻まれた人間の表情である。

専攻が歴史でも社会学でもなく文学なのは、それがそれらを内包しうるという汪洋な性質ゆえである。そういう意味では、私は文学の存在に明確な意義を見いだしているように思う。

今していることが、この百年の孤独に寄り添う体力を養うためにどれだけ役に立つかはまだ、未知数だけれども。

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