読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

特別な名前

ふと、十三歳の頃に恋していた男の子のことを、思い出した。

とくべつな思い出ではない。ただ、「ジョー」というアダ名を付けて呼んでたことを、思い出したのだ。

由来はありがちな出所で、目が隠れるほど伸びた前髪が矢吹ジョーに似ていたからであって、これは今考えてもなかなかのネーミングセンスだと思っている。尤も、彼のことをジョーと呼ぶのは私しかいなかったが。

ジョーのことから、これまで幾つかあった淡い恋心や友達のことを思い返していると、自分の無自覚の習性に気づいた。

私は昔から、仲の良い人や、自分にとって特別なひとにアダ名をつける習性がある。ただそれはアダ名というよりどちらかと言えば、コードネームに近い。

一生を通してその人に対して私以外その名前で呼ぶことはないであろう、自分と相手の関係の間でしか使用されることのない、名前。

ネーミング自体はごく無自覚に行われる。なぜわざわざ特別な呼び名を用意するのかは分からない。

恐らく、自分にとって相手が特別であるように、相手にとって特別な名前を通して自分が特別な人間でありたかったのかもしれない。

いつかは消えてなくなってしまう今という時、空間、小さな世界、関係、思い出。

長い時を超えて、そんな名前で呼ばれていたことさえ忘れていたとしても、その名前で呼べばその時にあったお互いの距離感や空気感や気持ちが、お互いにだけ分かるよう鮮やかに蘇るような、そんな宝箱を埋めるようなことを、十三歳の私は行なっていたのだと思う。

そんなわけで、今まで恋人を名前で呼んだことがない。

「"僕"という一人称にはすごく非力な感じがあって、まだ自我が確定的でないというか、男の子とも男の人とも言えない危うさがあるように感じる。その中でも僕の"僕"は、すごくいい匂いがする」

一人称が"僕"な恋人をそんな理由から「僕」と呼ぶ。

きっとこの「僕の言う"僕"という一人称が発するいい匂い」という感じは、最も私の感覚に即しているのだけど、この特別なコードネームも近ごろはあちこちにその甘い匂いを広げ、最近では友達からの電話でもごく自然に「元気そうだねー、僕も元気にしてるの?」なんて具合に使われる。

コードネームにして永遠の中に閉じ込めた、限られた二人の時間や関係から飛び出して、周囲の人びとに認知され呼称されるようになった"僕"をみるのは不思議な気がするし、それと同時に周囲の人から私と同様に厳しく温かな気持ちで僕が愛されているような気にもなる。

いつか終わる日々をいくつか通りすぎ、気が付けばまだまだ続く日々が、気の遠くなるほど存在する。

永遠として保存される代わりに相変わらずの日々をゆく私たちは、きっとさまざまな物事に無自覚に、時には二人にしか分からない、時には誰かと共有するような特別な名前をつけて生きている。

Copyright (C) 2011 copyrights. 本トのこと All Rights Reserved.