読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

わたしだったわたし

世の中にはほとんど生きているのではないかと思わずにはいられないものがたくさんある。
例えば部屋の埃。
部屋の埃なんてものは、頼んでもないのに自ら意志を持っているかの如く増殖し、気付けばそこらじゅうに巣作り、もはやこの部屋の主がわたしなのかこの埃たちなのか混乱するほどだ。

女ならきれい好きだとは限らない、現にわたしがそうだ。
汚れが気にならないわけではない、ただただ掃除に向かないのである。

片付けや掃除にはセンスが必要であり、コツが必要であり、才能が必要だ。
どこに何を移動し収めるかを考え、さらに細部にまで細やかな気遣いで、はたく、掃く、拭く、磨く、といったことができるか否かである。
何といっても汚れは音もなく増え続ける。日々それらとのイタチごっこであり、見えない敵との真剣勝負と言っても過言ではない。

わたしには掃除のセンスも片付けの才能もない。
だからこの部屋は容易に物で溢れるし、どんどん埃にまみれていく。

部屋の中央に両手の買い物袋を下ろすと、そのまま床へ寝そべって天井を見上げる。
西日に照らされ、たくさんの埃が音も風もなく部屋中浮遊している。
歩きまわってただでさえクタクタなのに、部屋の汚さにどっと疲れが押し寄せる。
わたしだって、まったく部屋の掃除をしないわけではない。

こつこつ掃除をすることのない代わりに、気の向いた時に普段では想像もつかない勢いで掃除をするのである。
昔からそうで、ちまちまと日々現状維持に励むよりドバッと一気にやるほうが性にあっている。
特に全然準備のできていない旅行の前夜、ただでさえ寝付けず夜更けになった午前二時過ぎ、はたまた試験勉強期間なんかには、片付けがはかどる。
人間の体の中にはそういう非合理的なスイッチがどこかにあって、この合理的にできた社会とどうにかバランスよく折り合いをつけているのだと思う。
このような何か差し迫ってやらなければいけないことがある時の部屋掃除の現実逃避力は、凄まじい。

また何かで取り返さなければいけないような喪失感を負ったような時にも似た威力が発揮される。
そう丁度、四度目の失恋をしたうえに沈んだ気持ちのまま人の流れに任せて歩きつづけた街中で、いつ使うか完全に予定のないチャイナドレスや、どうせ使わないバランスボールや、すぐに飲まなくなる大量のサプリメントなんかを買ってしまった今日のようなどうしようもない日に、どうにか片付けることによってその仕事量を金銭換算し、総合的に見ると決して悪くない一日だったと後々無理くりこれら散財と救いようのない自分自身の正当性を後付けしたいような時、である。

そういうわけでわたしは掃除をする。処分し、収納し、掃き、拭き、干すのだ。
バランスボールと一緒に買った洗剤スプレーも、マスクも、ピンクのゴム手袋もある。

どこから手をつけていいのか分からないほど物で溢れた自分の部屋を完全装備で眺めながら、シミュレーションする。
「よし」とつぶやき、大きく息を吸い込み、動き出す。

テキパキと床のものを片付ける。
淡々と床を掃く。
粛々とフローリングを拭き、黙々と洗濯物を干すと、段々と部屋は綺麗になっていく。

床中のゴミを掃き集めると、一体これらの正体は何なのか、得体の知れない集合体がチリトリのうえに乗っかっている。
大量の髪の毛、どこから沸いたのか分からない綿埃、いつかに落とした食べ物のカス、そして目視では何なのか確認できない細かな砂のようなものが含まれている。

聞くに埃の正体はさまざまなもので構成されていて、衣類くず、皮膚の皮、ダニの屍骸、花粉、野外からくる塵など、多彩なラインナップである。中でもとりわけ髪の毛の量は尋常ではない。

人間の頭髪の平均量はおよそ十万本。一日の抜け毛は五十から百本。
そう考えると今、このチリトリのうえにある大量の抜け毛たちは当然の結果だし、お風呂場の排水口の尋常じゃない速度の髪づまり具合にも、合点がいく。
一週間で七百本近くの髪の毛が抜け落ちては、また生えるのである。
普段、週に七百本もの髪の毛が落ちている認識もなく生活しているし、部屋だけでなくどこかしこに散らばる髪の毛の行方は、お風呂場や出先やいつもの喫茶店や街角や。

チリトリの埃を、ゴミ箱へ捨てる。

物が減って随分すっきりとした床に顔を近づけ、フローリングの表面を眺める。
まだらな木目。細かなひきずり傷。薄らと白む埃の層。こびりついたソースの跡。
家具を置けばさして広いとも感じない八畳の部屋も、こう見るとなかなかに広い。

真っ直ぐ部屋の端から端まで雑巾をかけては折り返しを繰り返す。
私の目が回るのと引き換えに、床はピカピカになっていく。
すっかり日の翳ったベランダでは洗濯物がゾンビのような活力のなさでぶら下がっている。

拭き掃除の後はお風呂場へ。
塊となって排水口を占領している髪の毛をどうにかしなければならない。毎回お風呂に入るたびに、こいつのせいで水の流れが悪くなる。
一定量溜まれば処理すればいいだけのことだけど、これがなかなかそうもいかない。
できていれば今こんなにも山盛りの髪の毛が排水口周りで固まってその存在感を遺憾なく発揮することもないのである。

意を決し処理を行う。

ティッシュを四枚取り出し、排水口の髪の毛の塊をつまみ、ゴミ箱へ。先ほど捨てたチリトリの埃の上に、排水口の髪の毛の塊を乗せる。

数日前までわたしだったはずのわたしの一部が、ゴミ箱の中にいる。いつの間にか、わたしからわたしじゃなくなったわたしである。
毎日、千分の一のわたしがわたしではないものになって抜け落ちていく。
それらは不定期にこうして片付けられ、わたしより先に土になる。
わたしだって遅かれ早かれ土になるのに、本体のわたしより先に土に戻っていくなんて、などと思うと一人ゴミ箱のゴミを眺めながら何かしら取り残された気分にもなる。

そのうちに、もし仮にこのゴミ箱内の黒い塊がわたしの本体で、残されたわたしがわたしだったものだったら。などという想像遊びをしだす。
そんなことをしている間にもわたしの中からわたしが抜け落ちているのだ。
きっと髪の毛だけじゃない。
たくさんの経験や記憶、自分に与えられたうちの時間や、誰かとの親密さ、通帳の中身なんかも、少しずつわたしの気付かないところで日々抜け落ちて、わたしのものではなくなっていく。

そもそも「本体のわたし」なんてものから、あやしい。抜けた髪の毛は単なる抜け毛であってわたしではない。
わたしから手足が切り取られたら、やはり「わたしのものだった手足」になるだろう。
人間を識別するのに一般的に最も用いられるのは顔で、では仮に胴体から頭が切り取られたら、頭がわたしの本体になるだろうか。それとも心臓のある胴体が本体なのだろうか。
ここまでくるとどこが本体かも分からないし、そもそもに本体なんてものは最初からないのかもしれない。

そういうわけで、のっぺりとここに置いていかれた気持ちでいる「本体らしい何か」であるわたしは、この部屋に抜け落ちたさまざまな何かを探すように、ゴミ箱の中のわたしだったわたし、を見つめた。

 

2010/12/27

Copyright (C) 2011 copyrights. 本トのこと All Rights Reserved.