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少女よ、とがれ!

少し前のことだけど、愛想のよくない女の子に遭遇した。

その特性から親近感は湧かないんだけど、彼女のクールな雰囲気や自立心の強そうなまなざしに、変にニコニコしている女の子よりも、魅力的に感じたというかもっと彼女について知ってみたいという気持ちを抱いて、昔のことを思い出した。

 

姉によく、「女は愛嬌だよ」と窘められた。

ひとに対して愛嬌のない私に、「女は愛嬌さえあればブサイクでもそこそこかわいく見え、ひとから愛されるものだ」という経験論をよく語ってくれた。

姉自身、極めて冴えない中学時代を送ったのち、化粧やファッションに目覚めて高校デビューした経緯があって、形的な外見だけでなく表情や言葉などの親しみやすさなども他人に与える印象が随分違うことを、身をもって体験したからなのだと思う。

私は(姉だけでなく)家の古風な考え方の圧力からか、フェミニストなきらいがむかしからあって、姉の言っている実利的な面があることは認めつつも、自分がそうありたいかを考えるとまったくそこに共感できなかったため、若さも手伝って息苦しさや生きづらさを感じて、ずいぶん反発した記憶がある。

時が経って、その頃よりもずいぶん大人になり、多少の愛嬌も機能として備えるようになった。

少年でも少女でも、大人になるにつれて望むと望まぬとにかかわらず、社会性を獲得していく。そこで他人と衝突しないようにであったり、悪印象を持たせないために、多少の愛嬌を備えていくものなのだろうと、昨今の自分を鑑みて思う。

翻って、少女だった頃の私は、愛嬌があったほうがよかっただろうかと考える。

 

ないよりはあったほうがいいんだろうけど、元々愛嬌がよくないのが下手に愛嬌のよさをやると、無理に愛嬌がよいことを続けていかないといけないし、付随して全方位的に人間関係をやっていかないといけなくなる。

変に愛嬌を持たないと、変に期待させたりされたりもしないし、私が文頭の彼女に感じたような興味を抱くひとが仮にいたとしても、あらかじめ正直さを受け入れる準備が相手側にあるので、お互い疲れる人間関係をしなくて済む。それに、誰にでも愛嬌のよい人間なんて、なんだか信用ならない。

 

これは完全に好みと人間性の問題なんだろうけど、私はやはり自分が愛嬌のない少女時代を送って損をしただとか、愛嬌のあるひとであったほうがよかったと感じたことがないので、他の人にも過剰に愛嬌の良し悪しを期待したり推奨したりはしない。

愛想のよくない彼女のことが割合思い出されるのを考えると、ふだん愛嬌のないタイプや、尖ったタイプの女の子に遭遇すること自体が、そういえば少ないのだろうなと思う。 

ただ愛嬌のよい女の子だなんてつまんない。

少女よ、とがれ!

自己紹介

「ほら、私って毒舌じゃん?」みたいな同調を前提とした自己申告が含まれる会話が苦手だ。

第一に、私が実際はどう感じているかなどお構いなしに、当然のように同意を求めてくるその図々しさ。百歩譲って、私がその人のことを毒舌だと思っているならまだ救いがあるけど、まったく毒舌だとも何とも思っていない場合なんかは最悪だ。

第二に、その自己申告が多分に「その人がそのように見られたい自分」の自意識が漏れた結果だという微妙な波を私が受信してしまうからだと思う。この自己申告型のコミュニケーションは免罪符的な役割をあらかじめ期待されている。

もちろん、この手の自己申告すべてを否定するものではなくて、時々そのような微妙な波を受信するというだけの話だ。

この感覚に関連するのだろうとこの頃考えているものに、自己紹介への苦手意識がある。

 

どうやら私は、自己紹介をするのが苦手なようだ。

自己紹介という形式で私を切り取る時、「私の中のどのような部分を切り取って、私として私が紹介するか」という自己選択が迫られる。
その自己選択そのものに「私がどのような私として見られたいか」というある種の自己の型化と自意識の発露を感じるし、どの部分を切り取って紹介する私も、私自身が大して私のように感じられないということもある。

そもそも形式化された自己紹介の形が、その人を知るために本当に最適なのかという疑問もある。

質問が答えを規定する。

あらゆる場面で感じるこのことは、当然のように形式的なこの自己紹介にも及ぶ。

その自己紹介が適切であるかとか、実態に沿っているかとか、きっとそんなことなんてどうでもよくて、だいたいの人となりを知ることが必要なので、とりあえず糸口としてどんな人か把握しやすいよう略歴的な自己紹介を行うんだってことは理解している。

そう考えると、そもそもさほどその手法を使って自分のことを知ってほしいと思っていない自分の不親切さばかりが浮き出てしまって、申し訳ない気持ちにならないでもない。
略歴を3分話すよりはこんな話をしたほうがよほど「私」っぽいけど、自己紹介としてやるにはおよそ不向きな話だし。

そんなわけで、これからもなるべく自己紹介をしないで生きていきたい。

 

夫業24時間

図書館で適当に本を手に取り、パラパラとめくって思いもよらぬ未知の本と邂逅するのがたのしい。

無数の書物の中から、あるものはタイトルに惹かれ、あるものは偶然手にとり、めくっては数秒で本棚へ戻したり、あるいはすでに片腕の山となっている本に追加して家に連れて帰ったりする。

なるべく適当に本に出会いたいから、図書館を隈なく散策する。

ほとんどの部分は、指の間からこぼれ落ちる砂のように記憶から抜け落ちるのに、そんな中でも、やけに引っかかって、いつまでも頭の隅で反芻するようなフレーズやストーリーがある。

先日やはり図書館で適当に読んだ、本だったか雑誌だったかに、こんな内容が書かれていた。

 

夫業は24時間である。しかしほとんどの場合、そのことを理解していないことによって、すれ違うケースが多い。

 

 うろ覚えなので正しい文章ではない。また当の本を借りていないことから、手にとった時には然程その本に対して、魅力的に思わなかったのだろう。

なんとなく「夫業は24時間」というフレーズのインパクトだけが、時間とともに頭の片隅に残った。

というのも、そもそも「夫業」というものを概念として認識したことがなかったことと、それが24時間という常時であると主張されているものに、初めて遭遇したからだと思う。

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