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わたしは窘められたい

電話好きな彼女は時々、飲んだ帰り道の空いた時間に、酔って電話をかけてくる。

ケータイで電話をすると熱を持って耳が熱くなるのが苦手であったが、彼女の長電話に鍛えられた昨今、電話への苦手意識もずいぶん薄れていることに気づく。連絡無精な私としては、定期的に連絡がきて受動的に近況が知れるのは、ありがたい。

「この間、24歳の子と遊んだんだけどさぁ、いい感じになっちゃって〜。付き合う気はないんだけど、雰囲気盛り上がってついつい手、出しちゃった...」

私はお風呂上がりの髪を掻き上げながら「へぇ」と聞いている。

「でもさぁ、いい年してイタイケな24歳に手ぇ出しちゃって、ちょっと反省しているわけ。若い頃ならまだしも、私たち、もうそういうことして許される年齢じゃないジャン?」

酒好きで人懐っこさのある彼女は、全く美人というタイプではないが、モテる。

「あのさぁ、一つ言っておくと、そうやって年ぶるのやめたほうがいいよ。『いい年したアテクシ』みたいなのって自分では卑下してるつもりだろうけど、言ってる本人が満足するだけで他人からしたらどうでもいいし見苦しい。それに『イタイケな24歳』なんて言ってるけど、あなたご自分の24歳の頃を思い出してみなさいよ、『イタイケ』だった??」

こういう時は「付き合う気のない人間には手を出してはいけません」と助言するべきだろうか。彼女相手にそんな野暮なことを言う気になんてなれないし、彼女のやるままでいてくれたほうがこちらとしては面白い。

受話器越しにちょっと考えるように唸ったあとに「あー、ごめん。思い出したわ、24歳。たしかに『イタイケ』とは程遠かったな、イタイケと言っていいのは16歳くらいまでだわ」と笑って、まぁなるようになるよね〜と言いつつ、出来レースでしかない次回の予定の話をしている。

 

彼女との間柄も昔はもう少し殺伐としたものだった記憶があるが、今ではすっかり彼女から報告される日常の話を聞いて、時には少し窘めたり、助言したり、励ましたり、そんな感じになっている。

 

ここでふと自分について思い返すと、普段あまり窘められたり、叱られたり、助言されたりする機会が少ないことに気づく。

元々自分の話をするより人の話を聞く役割をすることが多いのが一因っぽいけど、気づいてしまうと何となく誰かに窘められる機会が少ないことに、危機感を抱いてしまう。大人になればなるほど、自分のことを窘めたり叱ったりしてくれる人は少なくなって、価値観や視野が狭まっていくから。

 

先日、夫の会社の飲み会にお邪魔したときにも、窘められることについて「いいなぁ」と思う光景に出くわした。

同じテーブルに夫の会社の社長夫妻が座っていて、大皿から取った料理を口に運ぶ社長に、社長夫人が「取り皿があるのだから、一旦取り皿に取ってから食べるんだよ」と窘めていた。それに対して社長は意に介さず再び大皿から取った料理を口に運んでいたけど、その光景をわたしは「いいなぁ」と思い眺めていた。

わたしの好みだけど、お行儀やマナーについて、気になる人も気にならない人も、知ってる人も知らない人もいるけれど、奥さんにするなら気になる人(知っている人)がいいし、ちゃんと口うるさく注意してくれる人のほうがいい。

うちでも似たような光景を再現することがあるけれど、言う方はこれ非常に面倒くさいし、何の得をするものでもないんだけど、だからこそそれって何だかとても I love you っぽいと思う。

もちろん、誰にでも窘められたいかといったらそうではなくて、相手との信頼関係が充分にあって、何か自分が間違えたことをしたときや、直したほうがよい部分があるときに、相手が注意してくれる(あるいはしてくれるだろう)というのは、自分が安心して相手に任せて甘えられる関係性ということでもあると、社長夫妻のやり取りを見て思った。

そういう甘くあたたかい世界で、わたしも窘められていきたいわけです。

 

形見になるようなものを身に着けてと私は母に言った

母はほとんど自分にお金をかけることをしない人だった。

苦労人らしく貧乏性という言葉がぴったりの人だが、それでいて格好はいつも草臥れた感じがない。

「みてみてこの指輪! 教会のバザーで買ったんだけどね...幾らだと思う? 百円、なの!そんな風に見えないでしょう? うふふ」という具合で、何事にもこれという欲もなく、どんなものにも楽しみを見つけられる人だ。

 

川端康成の作品に「片腕」という短編小説がある。ある男が若い娘から片腕を借りて自分のアパアトメントに持ち帰り一夜を過ごすという官能と夢想入り交じる話であるが、その出だしは、娘が男に自分の片腕を貸す会話から始まる。

「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね。」と娘は笑顔で左手を私の腕の前にあげた。「おねがい......。」

左片腕になった娘は指輪を抜き取ることがむずかしい。

「婚約指輪じゃないの?」と私は言った。

「そうじゃないの。母の形見なの。」

小粒のダイヤをいくつかならべた白金の指輪であった。

「あたしの婚約指輪と見られるでしょうけれど、それでもいいと思って、はめているんです。」と娘は言った。「いったんこうして指につけると、はずすのは、母と離れてしまうようでさびしいんです。」

この短い話を読み終えた後にも、なぜかこの指輪のシーンだけが深く私の心に残った。というのも、私には母から貰い受けるような形見となる何かがあるだろうかと、ふと思われたからである。教会のバザーで百円で買った指輪では、あまりにさびしい。

私も母と似て、自分のためにお金を遣うことが得意でない。だから、どうしても自分を後回しにしてしまう母の特性がよく理解できる。

この短編を読んでしばらく後、母に「形見になるような、よいモノを買って身に着けて」と言った。「川端康成の小説でね、こういう話があって。母の形見を身に着けているシーンがあるのだけど。お母さんから貰い受けるものが何もないのではさびしいから」。

その話をしてから、母はよく物を買うようになった。

元々仕事をしており、お偉いさんとの会合にも顔を出す機会の多い人なので「いい年齢だし、やっぱそれ相応の物を持っていないとね〜」と一緒にショッピングへ付き合うことも多いが、「ちょっと高いかなぁ...でもこれ買っても、ゆくゆくはミネコのものになるからね!」とまるで買う理由を自分に納得させるようにつぶやいて買う姿には、我が母ながら微笑ましくなる。

ゆくゆく自分が貰うかどうかはさて置いて、自分の身に着けるものに興味を持ち、一緒に買物へ出かける機会が増え、自分のための人生を謳歌して生き生きとしている母の姿を見ると、思いもよらず「こう生きてよいのだ」と肯定されるような、安堵する気持ちにもなる。

母にはこれからも、形見にしてもよいと思えるような良いモノを身に着けておいてもらいたい。

 

眠れる美女 (新潮文庫)

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三年契約

「恋ってなんですか」と問われて恋について考えたけれど、あまりしっくりくる答えがでなくて驚いた。そういえば、恋ってなんだろう。

「強烈に他人(往々にして異性)に興味を惹かれ、寝ても覚めても考え欲してしまうこと」と考えたけれど、恋じゃないケースにも当てはまるような気がしてやはりしっくりこない。

Wikipediaの「恋愛」の頁をみると、いくつかの辞典を引用し、恋や恋愛について記述されていた。

「男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい」(『広辞苑』第6版)


「人を好きになって、会いたい、いつまでも そばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)」(『三省堂国語辞典』第7版)

 

「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」(『新明解国語辞典』第5版)

この説明でいくと『新明解国語辞典』 第5版がもっとも一般的な「恋」に近いと思う。でもそれでは私はこの恋をしたことがあるだろうかと考えると、すこし違う。

 

 僕と出会ったのは、彼が16歳のころだった。

当時私には5年付き合っている恋人がいて、偶然出会ったこの少年のことを、とても風変わりな子だと強烈に興味を惹かれたのを覚えている。その興味は最初から恋であったわけではないけど、それでも比較的早い段階で恋心に変わった。

私は彼に恋したことに驚き、動揺した。6歳も年下のまだ高校生の子に恋したことよりも、自分には恋人がおり、その関係は穏やかで、恋人が自分のことを世界で一番大事にしてくれていることを、とてもよく知っていたから。

恋人はキリストのように慈愛深く、世界に絶望している私に根気強く寄り添い、愛情を注いでくれていた。

私は恋人のことが本当に好きだったため、同じ心の中に、強烈に惹かれる僕への恋心があることに苦しみ、絶望した。同時に二人への愛情を抱いている歪みが発生したから。当然のように一途であることを善しとし疑うことのなかった、この心の、範疇に。

私の僕への気持ちはとても強く、大人になっても他人にこんなに強く惹きつけられることがあるのかという事実にも驚いた。私の僕への気持ちは、何度どう確認しても明らかに浮ついた気持ちではなく、本気であった。

その後、僕が大学で上京するのと同時に、私は恋人に別れを告げた。同じ心の中に二人への愛情を持ち続けることに耐えられなかった。だから恋人と別れ、僕にこの恋心だけ伝えて、どちらを選ぶわけでもなく一人で生きようと思った。無意味な罰を自らに与えたかったのだと思う。

 

私にとって計算違いだったのは、僕へこの恋心を告げた時に、僕もまた私に恋していたということだった。私は自分の気持ちを伝えることは考えていたけれど「付き合ってください」と言う気は毛頭なく、彼も同じ気持ちであったときのシミュレーションをしていなかった。僕にこれからどうしたいかを訊き、私たちは恋人になった。

 

ところで恋の話に戻ると、結局私の僕に対する思いはやはり「恋」とは少し違っていたように思う。 

 強烈な想いはあるけれど、「私を見て!私を愛して!!」という恋の特権である独りよがりな態度が当初から絶対的に欠けている。それはもしかしたら恋人の態度として適切ではないのかもしれない。

 

私たちが付き合い始めたとき、「付き合うのはいいけど、三年契約にしましょう」と言ったことを、僕はもう覚えていないかもしれない。

まだ若くこれから大学に入って人生を謳歌しようという青年なわけだから、その間に彼により良い女の子が出てくるかもしれない。私が年上であるという一点で、無為に時間を過ごしたあと、一方的に何らかの責任を感じられるのもまっぴらだった。私の言葉は、彼にしてみれば少々冷たく響いたかもしれない。

三年あれば付き合いとしても、彼が得る経験としても、結果としても十分ななにかが出るだろう。私が彼といることで、彼の人生のプラスにならないのであれば、私は彼と一緒にいる気はさらさらなかった。

 

 その後、三年経っても結局別れなかった。それどころか彼は私と結婚することを選び、三年を予定していた契約は形式上、永遠のものとなった。

 

「自分の存在が彼の人生のプラスになるか」という控えめな気持ちでいた私は、今では「私以上に彼を上手に愛せるひとはいないだろう」と思う。

私の恋が特異なのは、極端な話、彼自身の気持ちなどはどうでもよくて「私自身が彼を好きなのだ」という動かしがたい事実があること一点に尽きる。基本的に、彼が寡黙であろうが無愛想であろうが病弱であろうが何者であろうが*1、私が彼を好きであることに変わりはない。

他人を信じない自分の性質によるところもあるかもしれない。三年契約とすることで、いつでも出ていけるドアを用意した。私はここにいるが、あなたがここにいるのはあなたの自由意志による選択の結果なのだと。私はあなたが好きだから私が信用できるレベルの充分な愛情をもって接するだろう、あなたが私を好きなのであれば、同様に私に信用されるだけの態度を取ればよい、と。

恐ろしいことは彼が私を好きでなくなることではない。私が彼を好きでなくなることだ。私は自分自身の気持ちでさえ信用していない。そして私は責任の持てないことをしたくない。だから彼をなるべく細心の注意を払って大事にしたいと思う。もしかしたら私の心なんぞより、よほど他人の心の方が信用できるかもしれない。

 

先日、近所を歩いていると中年の男性が交番で警察官と話していた。

手に洗濯物の入ったネットを持って、ご丁寧にも交番に届け出ているのである。

「これ、落ちてましたよ」

交番に洗濯物の落し物を届けてそのまま立ち去ろうとする男性を制止して、警察官が尋ねる。「拾得物の権利はどうしますか?」

私はそれを見て「なんてマヌケな質問をしてるのかしら。洗濯物が落ちてるのを届けただけだのに『権利はどうしますか?』だなんて」と呆れて僕に言った。

「そうは言っても権利はあるからね。もしかしたら拾った人が使いたいって思うかもしれないじゃないか」

そういって私たちは笑った。

 

僕はよく「ミネコがいなければ僕は死んでいただろう」と言う。彼は時々大げさなところがあるけど、でもたしかに私がいなければ僕が死んでいたかもしれないと思うことが何度かある。そのたびに私は彼の命を拾ってきた。

拾った彼の命は警察には届けていないけど、私にも彼の命を拾った拾得者としての権利はあるかもしれない。彼の命はもう彼のものでさえなく、拾った私のものなのであれば......そう考えると少し愉快な気持ちになる。

 

この私の身勝手な愛情について、彼ははた迷惑に感じているかもしれないが、私にとっては彼が迷惑に感じているかどうかも、どうでもよい。彼がそれを選び私に拾われたわけだから、どうかこれからもこの奇妙に注がれる愛情にお付き合い願いたい。

*1:そもそも私が彼と出会った頃、彼はプログラマでさえなく、病弱で学校を休みがちなただの、高校生だった。

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